雨とクッキー 2024/06/02 Sun 雨とクッキー 街中が雨雲に覆われ、アスファルトに無数の雨粒が打ち付けられる6月。むせ返るような植物の匂いで満ち満ちた通学路に、水溜りを割って走る音が響く。 小学校中学年くらいだろうか、体操服の少年が傘もささず一目散に駆けて行く。 黒光りのランドセルが、上下に大きく揺れながら、足音とともに雨のカーテンの奥へと消えていった。 「ただいまーーー」 ガチャリと玄関の扉を開いて、少年は自身の帰宅を大声で告げた。 「おかえりなさい。…っと、これはまた随分びしょ濡れで帰って来られましたな」 2階からバスタオルを抱えた青年が、やれやれと降りてくる。 「傘。通学路に落ちていたと、先ほど近隣の方が届けに来てくれましたよ。それで今迎えに行こうと……手遅れでしたが」 小言を言いながらタオルを広げて近づいて来る。 「どうして、というのは後から聞くとしましょうか。まずはお風呂に入ってきなさい。そのままでは風邪を引いてしまいますな」 どうやらお説教は免れたようだ。 少年は大人しく髪やランドセルを拭いてもらうと、グチョグチョの靴下を持ってお風呂場へと直行した。 雨を限界まで吸い込みパンパンになった衣類を洗濯槽へ投げ入れる。カチャッと扉を開けばそこは湯気の世界。湯気の出所はついさっき湧いたのだろう、ほかほかの湯船だ。 少年は雨に濡れた全身の記憶をお湯で塗り替えるべく蛇口をひねる。風呂を沸かしていたからか、すぐに水はお湯に変わってくれた。冷えきっていた体が徐々にほどけ、内側からエネルギーが満ちてくる。 「いきかえる…」 そんな爺くさいことをぼやいて我に返り、一人ほくそ笑む。髪と全身を洗い上げ、背中に泡が少し残っているのも気にせずに少年は浴槽に片足を突っ込んだ。 「つめたっ、あ゛っあつう!?」 急いで片足を抜き、代わりに片手でお湯の調子を測る。そして腕にお湯が馴染んできた所でもう一度片足を入れ、今度は腰、次に肩まで浸かる。 「はふぅ…」 生きてて良かった。そう心から思った。 芯まで温まり、いい匂いのする衣服に着替え、まるで生まれ変わったような気持ちで少年は脱衣所を出た。リビングの扉を開けようとして中から何やら甘い匂いがするのに気がついた。 「巽兄」 彼が振り返る。手元を見るとクッキーの生地のようなものと、型がいくつか転がっているのが分かった。 「おや…ふふ。身体は十分温まりましたかな?」 「うん! みて、このとおり」 腰に手を当てふんぞり返ってみせる。 「ふふ。そうですな、まるで生まれたての赤子のようで愛らしいです…あ、」 「あかごはよけいだよ!」 「そうでした、すみません」 口では謝りつつ、クスクスと楽しそうに笑う彼に反省の色は見られない。……楽しそうだから良いけど。少年もたまらず表情を緩ませる。 「それ、クッキー?」 彼の手元を指差し、少年は尋ねる。 「はい。先日差し入れで手作りのマフィンを頂いたので、そのお返しにと思って……。気になりますか?」 「あっ、え」 あまりにも、熱心に彼の手元を見ていたのだろう。 「でもプレゼントならオレがいたら上手にできないと思う……」 「そう気負わなくても。これはまだ試作の段階ですし、心配無用ですな。それに、たとえ本番だとしても、君がよければお手伝いをお願いしたいです」 「いいの?」 頷いて調理台の前を開ける彼。 少年は調理台のキャビネットから折りたたみ式の踏み台を引っ張り出した。 「まずは好きな型を使って生地をくり抜いていきましょう♪」 「僕、鳥さんがいい!…っあ、オレェ……」 「…無理に変えなくてもいいのに」 優しく、でも少し乱暴に頭を撫でられた。 「……もうっ」 手を払う。ゆるく目を細める彼。 「鳥さん。蒼さんは鳥さんが好きなんですね?」 「?」 「いえ、少し気になったもので」 強引に話を逸らしたなと思いつつ、少年はクッキーの型を抜きながら今朝の出来事を話し始めた。 それは今朝の登校中のこと。昨夜の雨の影響でじっとりと湿った通学路を一列になって歩いていたとき。2本先の電信柱の下で黒い地面に小さな鳥が一羽、ちょこんと佇んでいるのが見えた。 「鳥がいる」 「どうしたんだろう」 「見てみようよ」 班の子どもたちは好奇心からその小鳥に近づいた。しかし、小鳥は数人に取り囲まれても一歩も動かない。どうやら雨で羽が濡れて飛べなくなってしまったらしい。 「どうしよう」 「近くの大人に言う?」 「早く行かないと遅刻するよ」 子ども達は口々に自分の意見を言うのでまとまらない。そのまま時間は過ぎていき、朝礼まで30分を切ってしまった。加えて小雨もポツポツ、服にシミを作り始めた。 「わぁ!雨だよ」 「鳥さん、ますます濡れちゃう」 みんながワタワタする中 「オレの傘かしてあげる」 少年は自分の傘を、雨から小鳥を守るようにして置いた。小鳥は相変わらず一歩も動かないで目をパチクリさせている。 1学年上の子の傘に入れてもらって、少年達は急いで学校へと向かった。 「そんなことが」 「そう、それでさっき走って帰ってきたんだよ」 「鳥さんのためだったんですね。優しい子」 「ふふ!」 「しかし、次からは必ず迎えが来るまで待つか、公衆電話から家にかけるようお願いしますな。風邪を引いてしまっては本末転倒でしょう」 「えーーー! 最後までほめてよ!! 巽兄のケチ!!」 話の腰を折る彼に、少年はわざとらしく膨れてみせた。彼は困り笑いで「ごめんね」と少年の頭を撫でる。 そんな茶番をしていると、オーブンがチーーーンと元気よく鳴った。クッキーを取りにいくニ人。オーブンからは甘い良い匂いがする。 開けてみると、トレーには綺麗な焼き菓子色をした小鳥が割れも欠けもせず均等に並んでいるではないか。ニ人は目を見合わせる。 期待以上の良いものができた。 「せっかくなので、傘を届けに来てくれたご近所さんにもお裾分けをしましょうか」 彼の一言に少年も頷き、トートバッグにラッピングしたクッキーを忍ばせると、二人はサンダル姿で外に出た。 外はもう今朝からの雨模様が嘘だったかのように晴れていて、空は青々としている。 それでも所々に雨の片鱗は残っていて、足元では水溜りが、木々や草花の上では露が、あちこちで太陽の光を反射して世界がキラキラ輝いて見える。そんな世界に陶酔していると、一羽の鳥が二人の横を飛び抜けた。 「あの子かなあ」「あの子だと良いですね」なんて二人で言い合いながら。 いつまでもこの世界で二人きり、ずっと一緒にいられますように。 少年はそう青空に願いをかけた。 〈〈前の話 ページTOP
街中が雨雲に覆われ、アスファルトに無数の雨粒が打ち付けられる6月。むせ返るような植物の匂いで満ち満ちた通学路に、水溜りを割って走る音が響く。
小学校中学年くらいだろうか、体操服の少年が傘もささず一目散に駆けて行く。
黒光りのランドセルが、上下に大きく揺れながら、足音とともに雨のカーテンの奥へと消えていった。
「ただいまーーー」
ガチャリと玄関の扉を開いて、少年は自身の帰宅を大声で告げた。
「おかえりなさい。…っと、これはまた随分びしょ濡れで帰って来られましたな」
2階からバスタオルを抱えた青年が、やれやれと降りてくる。
「傘。通学路に落ちていたと、先ほど近隣の方が届けに来てくれましたよ。それで今迎えに行こうと……手遅れでしたが」
小言を言いながらタオルを広げて近づいて来る。
「どうして、というのは後から聞くとしましょうか。まずはお風呂に入ってきなさい。そのままでは風邪を引いてしまいますな」
どうやらお説教は免れたようだ。
少年は大人しく髪やランドセルを拭いてもらうと、グチョグチョの靴下を持ってお風呂場へと直行した。
雨を限界まで吸い込みパンパンになった衣類を洗濯槽へ投げ入れる。カチャッと扉を開けばそこは湯気の世界。湯気の出所はついさっき湧いたのだろう、ほかほかの湯船だ。
少年は雨に濡れた全身の記憶をお湯で塗り替えるべく蛇口をひねる。風呂を沸かしていたからか、すぐに水はお湯に変わってくれた。冷えきっていた体が徐々にほどけ、内側からエネルギーが満ちてくる。
「いきかえる…」
そんな爺くさいことをぼやいて我に返り、一人ほくそ笑む。髪と全身を洗い上げ、背中に泡が少し残っているのも気にせずに少年は浴槽に片足を突っ込んだ。
「つめたっ、あ゛っあつう!?」
急いで片足を抜き、代わりに片手でお湯の調子を測る。そして腕にお湯が馴染んできた所でもう一度片足を入れ、今度は腰、次に肩まで浸かる。
「はふぅ…」
生きてて良かった。そう心から思った。
芯まで温まり、いい匂いのする衣服に着替え、まるで生まれ変わったような気持ちで少年は脱衣所を出た。リビングの扉を開けようとして中から何やら甘い匂いがするのに気がついた。
「巽兄」
彼が振り返る。手元を見るとクッキーの生地のようなものと、型がいくつか転がっているのが分かった。
「おや…ふふ。身体は十分温まりましたかな?」
「うん! みて、このとおり」
腰に手を当てふんぞり返ってみせる。
「ふふ。そうですな、まるで生まれたての赤子のようで愛らしいです…あ、」
「あかごはよけいだよ!」
「そうでした、すみません」
口では謝りつつ、クスクスと楽しそうに笑う彼に反省の色は見られない。……楽しそうだから良いけど。少年もたまらず表情を緩ませる。
「それ、クッキー?」
彼の手元を指差し、少年は尋ねる。
「はい。先日差し入れで手作りのマフィンを頂いたので、そのお返しにと思って……。気になりますか?」
「あっ、え」
あまりにも、熱心に彼の手元を見ていたのだろう。
「でもプレゼントならオレがいたら上手にできないと思う……」
「そう気負わなくても。これはまだ試作の段階ですし、心配無用ですな。それに、たとえ本番だとしても、君がよければお手伝いをお願いしたいです」
「いいの?」
頷いて調理台の前を開ける彼。
少年は調理台のキャビネットから折りたたみ式の踏み台を引っ張り出した。
「まずは好きな型を使って生地をくり抜いていきましょう♪」
「僕、鳥さんがいい!…っあ、オレェ……」
「…無理に変えなくてもいいのに」
優しく、でも少し乱暴に頭を撫でられた。
「……もうっ」
手を払う。ゆるく目を細める彼。
「鳥さん。蒼さんは鳥さんが好きなんですね?」
「?」
「いえ、少し気になったもので」
強引に話を逸らしたなと思いつつ、少年はクッキーの型を抜きながら今朝の出来事を話し始めた。
それは今朝の登校中のこと。昨夜の雨の影響でじっとりと湿った通学路を一列になって歩いていたとき。2本先の電信柱の下で黒い地面に小さな鳥が一羽、ちょこんと佇んでいるのが見えた。
「鳥がいる」
「どうしたんだろう」
「見てみようよ」
班の子どもたちは好奇心からその小鳥に近づいた。しかし、小鳥は数人に取り囲まれても一歩も動かない。どうやら雨で羽が濡れて飛べなくなってしまったらしい。
「どうしよう」
「近くの大人に言う?」
「早く行かないと遅刻するよ」
子ども達は口々に自分の意見を言うのでまとまらない。そのまま時間は過ぎていき、朝礼まで30分を切ってしまった。加えて小雨もポツポツ、服にシミを作り始めた。
「わぁ!雨だよ」
「鳥さん、ますます濡れちゃう」
みんながワタワタする中
「オレの傘かしてあげる」
少年は自分の傘を、雨から小鳥を守るようにして置いた。小鳥は相変わらず一歩も動かないで目をパチクリさせている。
1学年上の子の傘に入れてもらって、少年達は急いで学校へと向かった。
「そんなことが」
「そう、それでさっき走って帰ってきたんだよ」
「鳥さんのためだったんですね。優しい子」
「ふふ!」
「しかし、次からは必ず迎えが来るまで待つか、公衆電話から家にかけるようお願いしますな。風邪を引いてしまっては本末転倒でしょう」
「えーーー! 最後までほめてよ!! 巽兄のケチ!!」
話の腰を折る彼に、少年はわざとらしく膨れてみせた。彼は困り笑いで「ごめんね」と少年の頭を撫でる。
そんな茶番をしていると、オーブンがチーーーンと元気よく鳴った。クッキーを取りにいくニ人。オーブンからは甘い良い匂いがする。
開けてみると、トレーには綺麗な焼き菓子色をした小鳥が割れも欠けもせず均等に並んでいるではないか。ニ人は目を見合わせる。
期待以上の良いものができた。
「せっかくなので、傘を届けに来てくれたご近所さんにもお裾分けをしましょうか」
彼の一言に少年も頷き、トートバッグにラッピングしたクッキーを忍ばせると、二人はサンダル姿で外に出た。
外はもう今朝からの雨模様が嘘だったかのように晴れていて、空は青々としている。
それでも所々に雨の片鱗は残っていて、足元では水溜りが、木々や草花の上では露が、あちこちで太陽の光を反射して世界がキラキラ輝いて見える。そんな世界に陶酔していると、一羽の鳥が二人の横を飛び抜けた。
「あの子かなあ」「あの子だと良いですね」なんて二人で言い合いながら。
いつまでもこの世界で二人きり、ずっと一緒にいられますように。
少年はそう青空に願いをかけた。
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