桜並木の手のひら 2024/03/09 Sat 桜並木の手のひら 午後10時半、周りはとっくに寝息をたてているというのに少年にはいくら経っても眠気というものがやってこない。むしろギンギンである。何度か体制を変えて入眠を試みたが敢え無く失敗。諦めて一旦なにか飲み物を取りに行くことにした。 少年が何故こんなにも眠るのに苦労しているのかというと、なんせ明日は小学校の入学式なのである。 少年は年少の頃からずっと小学生というものに憧れがあった。小学生というものは一人で明日の準備ができ、一人で起きることができ、買い物にだって一人で行ける。小学生になれば突然そういったことができるようになると信じて疑わなかった。 台所に着くと先客が居た。風早巽さん(彼)だ。何やら一生懸命にせっせと作っているようでこちらには気がついていない。 少年はニヤリと笑って、足音を立てないよう近づいた。ソロリソロリ。あと少し。 その時 「立ち去れ悪魔(サタン)め!」 バッと彼が振り返り叫んだ。 少年は驚いて尻餅をつく。 慌てて駆けつける彼。 「大丈夫ですか?!すみません、まさか蒼さんだとは思い至らず…。立てますか?」 彼の手を借りて立ち上がる少年。照れ隠しに太ももあたりをパッパと払う。 「……何してたの?」 彼の眉尻が下がる。 「夜食用におにぎりを握っていたんですよ。夜遅くまで作業している方たちがいるので」 廊下の奥に目をやる2人。電気がついている部屋がいくつか。 「蒼さんの方こそ、こんな遅くにどうされたんですか? 明日には大事な式が控えているのですし、もう寝たものかと思っていましたよ?」 叱られると思った少年は少しの沈黙を挟んだ。 そして彼の目線をちらりと盗んでから正直に打ち明けた。 「なんか、眠れない」 すると 「ふふ。……実を言うと俺も同じです」 彼は自身の肩に頬を寄せ、やや苦味走った微笑をみせた。 「この間まであんなに小さかった君が大勢を前にする姿を想像すると、俺のほうが緊張してしまいましてな。参ってしまいます」 その告白を聞いた途端、少年の心は跳ね上がった。 「ぼくも!ぼくもキンチョーしてる!」 眠れない気持ちの正体がはっきりわかったこと。なにより、自分と同じ気持ちを彼も抱いていたこと。 台所に並ぶ大きな影と小さな影。 午後11時ちょっと過ぎ、二人は眠気が訪れるその時まで、一緒におにぎりを握った。 入学式当日の朝、カーテンの開くシャッという音と共に少年は目覚めた。 「さぁ、朝です。皆さん、各々顔を洗ったら着替えて朝食を摂りに来てください」 彼の掛け声の下、子供たちはベッドからむくりと起き上がると、それぞれ洗面所やお手洗いへと向かう。 少年もフラフラとした足取りで洗面所へと向かい、顔を洗ってそこで気が付いた。 『一人で起きれてないな』 まぁ、今日は小学生1日目なので仕方ない。そう開き直って顔の水分を拭き取った。 入学式の会場へと続く桜並木。 ぶかぶかの制服に身を包んだ少年。 ランドセルに背負われているよう。 隣にはスーツを真面目にきっちり着こなす彼。途中幼稚園が一緒だった面子を何人か見かけて挨拶をした。 「牧師さんだ!」なんて無邪気な声も何度か聞こえてくる。 学校の校門付近まで来て、少年の足は途端に動かなくなった。無意識に抱えていた不安が式を目前にして大きな塊となって襲いかかってきたのだ。 実はこの少年、幼稚園の卒園式に参加できていない。というのも、練習の時点で自分の番となると緊張で泣き出してしまい本番どころではなかったのだ。今回の式も、少年の大きな負担になるならと欠席も考えたのだが、少年自ら参加したいとのことで今日を迎えた。 全てを見てきた巽(彼)は少年の気持ちが痛いほどよく分かる。俯いて、今にも蹲ってしまいそうな少年の名前を呼ぶ。こちらを仰ぎ見る少年の顔は案の定、泣く寸前だった。 今すぐ抱きしめてやりたい。そんな気持ちを押し殺して巽は 「俺が一緒ですな」 と手を差し出す。 一瞬駄目かもしれないと思った。この手を取らずにその場に蹲ったとき、自分がこの子を抱いて、来た道を戻ろうと。 しかし、そんな巽の予想に反して少年は、グッと姿勢を正して巽の手を取った後 「だいじょうぶ」 そう言って、空いている方の手で涙を拭い、巽の手を引いて歩き出した。 巽は呆気にとられる。そして我に返った後、少年がどれほどこの日を楽しみに、乗り越えようとしてきたのか思い至った。 昨日の夜だって眠れなかった、あの横顔を思い出す。 何事もなく入学式が終わって、新一年生たちが親のもとに帰ってくる。生徒たちの表情は泣いてたり笑っていたり様々だ。 少年は、というと清々しい顔をしてこちらへ向かって走ってくる。 巽はそんな少年を誇らしげに見つめ、両手を広げ抱きとめる準備をした。 そうして屈みかけたところで、小さく首を振り、屈むのをやめた。 〈〈前の話 次の話〉〉 ページTOP
午後10時半、周りはとっくに寝息をたてているというのに少年にはいくら経っても眠気というものがやってこない。むしろギンギンである。何度か体制を変えて入眠を試みたが敢え無く失敗。諦めて一旦なにか飲み物を取りに行くことにした。
少年が何故こんなにも眠るのに苦労しているのかというと、なんせ明日は小学校の入学式なのである。
少年は年少の頃からずっと小学生というものに憧れがあった。小学生というものは一人で明日の準備ができ、一人で起きることができ、買い物にだって一人で行ける。小学生になれば突然そういったことができるようになると信じて疑わなかった。
台所に着くと先客が居た。風早巽さんだ。何やら一生懸命にせっせと作っているようでこちらには気がついていない。
少年はニヤリと笑って、足音を立てないよう近づいた。ソロリソロリ。あと少し。
その時
「立ち去れ悪魔め!」
バッと彼が振り返り叫んだ。
少年は驚いて尻餅をつく。
慌てて駆けつける彼。
「大丈夫ですか?!すみません、まさか蒼さんだとは思い至らず…。立てますか?」
彼の手を借りて立ち上がる少年。照れ隠しに太ももあたりをパッパと払う。
「……何してたの?」
彼の眉尻が下がる。
「夜食用におにぎりを握っていたんですよ。夜遅くまで作業している方たちがいるので」
廊下の奥に目をやる2人。電気がついている部屋がいくつか。
「蒼さんの方こそ、こんな遅くにどうされたんですか? 明日には大事な式が控えているのですし、もう寝たものかと思っていましたよ?」
叱られると思った少年は少しの沈黙を挟んだ。
そして彼の目線をちらりと盗んでから正直に打ち明けた。
「なんか、眠れない」
すると
「ふふ。……実を言うと俺も同じです」
彼は自身の肩に頬を寄せ、やや苦味走った微笑をみせた。
「この間まであんなに小さかった君が大勢を前にする姿を想像すると、俺のほうが緊張してしまいましてな。参ってしまいます」
その告白を聞いた途端、少年の心は跳ね上がった。
「ぼくも!ぼくもキンチョーしてる!」
眠れない気持ちの正体がはっきりわかったこと。なにより、自分と同じ気持ちを彼も抱いていたこと。
台所に並ぶ大きな影と小さな影。
午後11時ちょっと過ぎ、二人は眠気が訪れるその時まで、一緒におにぎりを握った。
入学式当日の朝、カーテンの開くシャッという音と共に少年は目覚めた。
「さぁ、朝です。皆さん、各々顔を洗ったら着替えて朝食を摂りに来てください」
彼の掛け声の下、子供たちはベッドからむくりと起き上がると、それぞれ洗面所やお手洗いへと向かう。
少年もフラフラとした足取りで洗面所へと向かい、顔を洗ってそこで気が付いた。
『一人で起きれてないな』
まぁ、今日は小学生1日目なので仕方ない。そう開き直って顔の水分を拭き取った。
入学式の会場へと続く桜並木。
ぶかぶかの制服に身を包んだ少年。
ランドセルに背負われているよう。
隣にはスーツを真面目にきっちり着こなす彼。途中幼稚園が一緒だった面子を何人か見かけて挨拶をした。
「牧師さんだ!」なんて無邪気な声も何度か聞こえてくる。
学校の校門付近まで来て、少年の足は途端に動かなくなった。無意識に抱えていた不安が式を目前にして大きな塊となって襲いかかってきたのだ。
実はこの少年、幼稚園の卒園式に参加できていない。というのも、練習の時点で自分の番となると緊張で泣き出してしまい本番どころではなかったのだ。今回の式も、少年の大きな負担になるならと欠席も考えたのだが、少年自ら参加したいとのことで今日を迎えた。
全てを見てきた巽は少年の気持ちが痛いほどよく分かる。俯いて、今にも蹲ってしまいそうな少年の名前を呼ぶ。こちらを仰ぎ見る少年の顔は案の定、泣く寸前だった。
今すぐ抱きしめてやりたい。そんな気持ちを押し殺して巽は
「俺が一緒ですな」
と手を差し出す。
一瞬駄目かもしれないと思った。この手を取らずにその場に蹲ったとき、自分がこの子を抱いて、来た道を戻ろうと。
しかし、そんな巽の予想に反して少年は、グッと姿勢を正して巽の手を取った後
「だいじょうぶ」
そう言って、空いている方の手で涙を拭い、巽の手を引いて歩き出した。
巽は呆気にとられる。そして我に返った後、少年がどれほどこの日を楽しみに、乗り越えようとしてきたのか思い至った。
昨日の夜だって眠れなかった、あの横顔を思い出す。
何事もなく入学式が終わって、新一年生たちが親のもとに帰ってくる。生徒たちの表情は泣いてたり笑っていたり様々だ。
少年は、というと清々しい顔をしてこちらへ向かって走ってくる。
巽はそんな少年を誇らしげに見つめ、両手を広げ抱きとめる準備をした。
そうして屈みかけたところで、小さく首を振り、屈むのをやめた。
〈〈前の話 次の話〉〉
ページTOP