美しい男の肖像画 2024/10/31 Thu 美しい男の肖像画 昭和✕✕年。とある豪邸の客間。三人の富豪たちが自慢のコレクションを持ち合い小さな品評会を開いている。モネの睡蓮、横山大観の夜桜など名画の模写が卓上に並ぶ中に一つ、ただならぬ雰囲気を纏う肖像画が中心に据え置かれた。一点物だというこの作品には、青磁色の髪に赤い眼をした人物が一人、微笑みを湛え静かにこちらを見つめている。女とも男ともとれないモデルには何とも言えない魅惑があり、深紅の瞳には変わった光が灯っているようで見る人をたちまち釘付けにした。持ち主が小鼻を膨らませ、笑みを含んだ声で 「この肖像画を描いた画家は描き上げて間もなく死んでしまったそうですよ」 と付け加える。途端に一人が目を見張り 「それでは、こりゃ呪の絵って訳ですかい」 声を高くして尋ねる。 「そんな縁起の悪いもんでも無かろうよ。偶々ということもあろう」 一人がフォローを入れたとき、突然、窓硝子を鋭い光が貫いた。室内がモノクロに裏返り轟音が轟く。そして立て板に水をかけたみたいな土砂降りになった。 「くわばらくわばら」 ビビリの男が心底辛そうに手を擦り合わせる。 二人は互いに苦い顔を見合わせ同時に窓の向こうに目をやった。暗雲垂れ込める空はずっと向こうの町まで続いているように見受けられた。 「今度のは長くなりそうですな」 「まったく、物騒な天気で……」 明治✕✕年。春雨前線が日本列島を跨る6月。一時の晴れ間。先刻の水溜りが暮れの灯りを内包し、あめんぼがワイングラスを弄ぶように水面を揺らめかせている。 一陣の風が吹き、水溜りはさざ波をたてる。風を先導するのは革靴。 革靴はぬかるみを蹴るような音の他に小瓶同士がぶつかるガンカラとやや重い音を立てている。この音が聞こえると軒先の鶏たちは一様に煩く鳴き、連られるようにしてカラカラと玄関の引き戸が開く。出てきたのは塗下駄。塗下駄の地面を擦る音が、鹿威しの如く一定の規律をもって門に向かう。 「おかえりなさい」 「ただいま、巽」 乱れた靴先は塗下駄を前にして揃えられる。 革靴を履くのは年若い青年。雨が降ればそのまま溶けていきそうな甘い視線を恋人へ向ける。応ずるように温かな眼差しを落とすのは陶器のように眩い彼の恋人。恋人は塗下駄を履いている。 恋人の持つ翠髪は龍のひげの如く繊細で、一本一本に陽光が閉じ込められており、時折桃色にも見える紫瞳はとろけるような優しさで満ちている。二人は互いに見つめ合い、しばし視線の交換を愉しんだ。 茶化すように銀の糸雨が降ってくる。 「さあ中に入りましょう。冷えてしまっては大変ですからね」 恋人は青年の背に手のひらを添え家の中へと誘導する。彼を先に行かせ、戸口を窮屈そうに通る。恋人は平均よりも上背がある大きな男であった。 彼等は簡単な食事を済ませるといつもの習慣から北にある6畳ほどのアトリエに籠もった。アトリエには家具らしい家具は置いておらず中心にモデルのための椅子が、向かい合うようにしてキャンバスと椅子、脇にパレット類を置くサイドテーブルがあるだけだ。北窓から差す光は静謐で、窓は網戸にしてある。反対に、西側の窓には光が入ってこないよう黒の遮光カーテンが重々しく吊られている。 青年は手で椅子周りの散らばった画材を払うと、雨が入らないよう北窓を閉め、キャンパスの前に足を開いて座った。巽が画材を避けて定位置へと回り込む。籐椅子に深く腰掛け、上半身を少しだけ捻り、顎を引いてこちらを慈しむように 「うん。そのまま」 輪郭を追うように平筆で丁寧に色を重ねていく。キャンバス上にありありと浮き出る恋人の像は、青年に安息をもたらしてくれた。 青年は貪るような視線でモデルを観察し、何遍も何遍も色を塗り固める。 色が足りなくなると瓶の顔料を乳鉢に零し、油でそれを練った。チューブ入りの画材はあったが、自分で色の硬さを調節するのが彼の拘りだった。ラピスラズリを膠液で展色しウルトラマリンブルーを作る。筆で掬って瞳に……。と、ここで筆先が止まった。 『何か違う、もっとこう怪しい感じの色が欲しいのだが』 湿気の立ち込める暗室。毛穴を塞ぐ煮詰まった空気を厭う。窓に結露した水滴が一筋流れ、ポタリポタリと雨の音。 こうなるともうどうしようもないことを青年は知っていた。眉根を開いてふわり、肩を落とす。 「……少し休憩にしようか」 巽も表情を緩めて頷く。 「ですな、紅茶を淹れてきます。俺さんはアールグレイとダージリンどちらがいいですか?」 「甘いのがいいな」 「では、フルーツティーですね」 「うん、ありがとう」 巽は愛想のいい笑みを浮かべ、静かに扉を閉めて出て行った。 青年は見送るとキャンバスに視線を戻した。 グリニッシュの下地がよく効いて、重ねた色が一段と冴えて見える。纏う白シャツが天女の羽衣のように艶めかしく、包まれる肌はまるで傷のつきやすい桃だ。 ほうっと息を漏らした。 思わず触れたくなる。それでも、触れてしまえば火傷してしまいそうな。 そんなエネルギーが絵にはこもっていた。 『巽に出会わなかったら僕にこんな絵は描けなかった』 青年は顔のない肖像画をじっと見つめて静かに目を閉じた。そうしていつもそうするように、彼との出会いを思い起こした。 巽と初めて会ったのは一年前。 僕は知り合いの頼みで、とある展示会に作品を出展していた。といっても、出した作品は誰も見向きもしないような味のない無気力な絵。当時の僕は両親が事後で急逝して間もなく灰のような毎日を過ごしていた。創作活動をする元気などあるはずもない。僕は僕の作品なんて気にも留めずスルーして行ってしまう人々を眺めながら、ただボーっと立っていた。 そんな中、一人だけ、僕の作品の前からずっと動かない人間がいた。眼鏡をかけた標準よりもやや大柄な男。真剣な目つきで、絵を睨みつけているようにも見える。僕は自分自身を責められているような気分になり堪らなくなって声をかけた。 「随分と熱心に見られていますが、気になりますか?」 男は声をかけられて初めて人の存在に気づいたという風に、目を丸くして振り向いた。 「ああ、はい。いい作品だと思い眺めていました」 にこやかに微笑む。 この一瞬で僕が思ったこと。 ははん、この男は芸術が分からないのだな。分からないのに文化人振ってるのだ。 「失礼、貴方は作品のどの辺をいいと言ったのでしょう? 教えてくれませんか?」 男は「そうですね」と言ったきり顎に手を当てて黙り込んでしまった。 やっぱり。と思った。胸がずきんと痛んだ。 男の沈黙が明けるのも待たずに僕は喋りだした。 「っぼくからしてみれば、これを描いた人間は腑抜けた伽藍洞ですね、こんなつまらない絵を描くんですから。あなたが答えられないのも無理はないです……立ち止まっていたのはレンズが曇っていたから拭こうとしたのでしょう? どうです、私が拭って差しあげますよ」 おどけた調子を装い手を差し出した。しかし、男は眼鏡の中からじっと瞳を覗かせ 「いいえ、」 思いのほか強い口調だった。 「この絵は決してつまらなくなどありません。このくすんだ色使い。街灯の光のみが妙に眩しく、視界がボヤけた感じ。作者はきっと近頃にとても悲しい出来事があったんでしょうな。打ちひしがれてしまっているのがひしひしと伝わってきます。俺はこの作品を通して作者の背景に思いを馳せていたんですよ」 穏やかな、優しい眼差しだった。 僕はこの時どんな顔をしていたのだろう。男の純粋な優しさに触れて泣きそうな顔をしていたのだろうか、それともお前に何が分かると言わんばかりの怖い顔をしていたのだろうか。 いいや、きっとそのどちらでもない。僕は頭の中で彼を描くのに夢中だった。 肌はジョーンブリヤン。健康的な血色を表現するには鮮やかな黄色がいい。瞳の色はラピスラズリ。彼の精神性を表すには知的で慈悲深い、ウルトラマンの深い青が似合う。髪はビリジアン。いや、アンティークグリーンもいいな。 展開するのは色彩の万華鏡。頭が操られたみたいにおかしくなって、あまりの刺激に脳がパチパチと警告音を立てる。 「あなた、お名前は」 僕は半ば目を回しながら尋ねた。彼は特に気にするでもなく 「はい。俺は風早巽と言います。東南の方から吹く早い風と覚えてください。あなたは?」 「俺田俺…」 「俺田俺さん…?」 作品の方を振り返ってネームプレートを見る。 「おや」 月見草が月にはじけ咲くようだった。 香り立つストロベリーティーの甘い煙がティーカップの縁から流れ出し、シルクの糸のように延びて鼻腔をくすぐる。向かいには出会った頃と変わらない、柔和な笑みを浮かべた愛しい恋人。紅茶に映る青年の顔は、いいようもなく明るく、幸せそうだった。 十月も終わりが近くなり、吹きすさぶ秋風に上着をはためかせながら青年は港町まで足を運んでいた。絵画教室時代の友人が留学から帰ってくるというので、迎えに行くついでにいろいろと見て回ろうと思ったのだ。 港町は相変わらず市場で賑わっていた。食糧品やら雑貨、最新の機械まで。近年は殊更に文明開化の気風が高まっているせいか、どの店も西洋のものを店頭に飾って店の目玉にしている。中には赤字で非売品と書いたプレートが添えられているものまであった。 青年はそれよりも店奥の品が気になった。ちらと見える内装が物で氾濫している店ほど心惹かれた。 したがって青年はとある骨董店の前で足を止めざる終えなかった。仕入れたものを並べられるだけとでも言うような、売る気のまるで感じられないディスプレイ。品物が店頭を覆いつくす様に自然と体が吸い込まれていく。 「いらっしゃい。ごほっ」 山になったカウンターから店主がひょっこり顔を出し挨拶する。それが予期せぬ方角からだったのに青年は一瞬ぎょっとしたが持ち直して 「こんにちは、素敵な外装だったのでつい」 世辞を言った。 「かっかっか」 店主は豪快な笑い声を立て咳き込んでから 「ゆっくり見ていきんなさい」 目を笑わせて、また山に埋もれていった。 店内は実に美術品の宝庫であった。絵に陶器類に子供のおもちゃまで。世界中から集めてきたのだろう、有名なものから外国の子供が描いたような、まだ誰も知らないであろう作品まであった。 さらに歩みを進めていくと、奥まった所に一点の肖像画が行き当たった。大層な額縁に収まって大物の雰囲気を纏っている。青年は息をのんだ。そのモデルは彼の恋人に、顔かたち表情の何から何までが、違わぬところはないほどにそっくりだった。 いつの間にか隣に来ていた店主が青年に話しかける。 「その絵、目を引くでしょう」 青年はなんとか取り繕って「えぇ」と返事をした。店主は少し興奮したように 「ドイツの作家が遺したものでねぇ、まぁパッとしない絵ばかり描く作家なんだが、この絵だけ別人が描いたみたいにうまくて。私なんかはこの絵だけでファンになったもんです。残念なことに、絵を描き上げてすぐ亡くなってしまったようなんですが……。もっと生きれば、もっといい絵がたくさん残ったかも知れないのに、ごほっごほっ。失礼、最近咳が多くてね」 「大丈夫ですか」 「気にせんでください。ただの老いぼれ病ですから」 「はあ」 「まぁ何の事なし、この絵が良い絵だということをお客さんに伝えたかったんですよ。えふっえふっ」 青年は店主の死にそうな咳を表立って気に病むことをやめ話題を目の前の絵に戻すことにした。 「えらく気に入ってらっしゃるんですね」 「そりゃあもう」 店主が嬉しそうにはにかむ。 「いつ描かれたものなんでしょう?」 「たしか、150年くらい前のものだったと。保存状態がかなり良いのでそうは見えにくいんですがねぇ」 「はい……」 青年の心はすっと肖像画に奪われていった。特にその目にくぎ付けだった。色ではない論理でもない、青年の想像を超える何者かの力が働いて、一種の魔力ともいえる力を放っていた。 店主は最後に 「一点ものですよ」 と秘密ごとを共有するみたいに小さな声で囁いた。 「おいくらですか」 「100円でございます」 100円。(当時の200万) 青年は幸い先祖の蓄えがあるためにお金には困っていなかった。が、生憎100円なんて普段は持ち歩いていない。 「必ず買いますから。あとでお金を持ってきましょう。残念ながら今は手持ちがありません」 「それは残念でございますなぁ。あいにく私も夕方の便でここを離れることになっておりまして」 「それは……」 青年は言葉に詰まった。そんなわけがなかろうと。しかし気持ちに諦めがつかない。腕にしていた祖父の形見の腕時計を店主へ差し出す。 「おそらく100円以上の価値があると思います」 店主は値定めするように、時計をじろりと舐め回してから青年をその大きな目玉でぎょろと見た。 『ぬらりひょんみたいだ』 「いいでしょう」 店主はそう言ってカウンターに戻ると、風呂敷を持って咳き込みながら絵を包んでくれた。 青年は風呂敷包みを脇に抱え船着き場に友の舟を待った。しばらくして大きな船がやってくる。人の塊が視認できるようになったので、ハンカチを振ってアピールすると、スーツを着た友人らしき男もハンカチを振り返してきた。 「やあ、久しぶり。元気だったか?」 「ぼちぼちだよ」 他愛ない挨拶を交わし、青年が労いの意を込めて友人の鞄を持ってやろうとすると彼はそれを断り、代わりに風呂敷包を指さして尋ねてきた。 「随分と大きな荷物だが、それは何を包んでいるんだ」 「これはさっき骨董屋で買ったんだよ。なかなか面白いものだから君にも見てほしい」 二人は適当なお座敷のある店に入った。 「これなんだけどね」 風呂敷を広げる。友人の目が軽く見開かれた。 「これはお前、どこで買ったんだ」 「港町の船着き場のすぐ近くの骨董店だよ」 「こりゃあ面白い」 「? 」 友人は少し苦しそうに喉の奥で息を吐いてから作品を手に取り、視線で愛撫するように肖像画を眺めていた。 青年は友人が話し出すまで黙ってそれを見ていたが、途中でたまらなくなって声をかけた。 「そろそろ僕にも説明してくれよ。それの何が面白いのか」 「あぁ、すまん」洗脳が解けたみたいにぱっと顔を上げ友人はきまり悪そうな笑みを浮かべた。 「いや、そんな大した話でもないんだがな」と言いながら居住まいを正す。 青年もつられて行儀の良い姿勢になった。 「つまり要約するとだな。これは所謂、都市伝説でいうところの呪の絵ってやつだ。時代や国を問わず同じような絵が見つかっているし、作者は大体このモデルを描き上げた後に死んでいる。まぁどうだかって話だが、業界では有名な怪談話だよ。色んなアレンジがされていてな、画家は死ぬ前に同じ人間の夢を見る。妖怪が現れて画家を殺してしまうなどと言われている。なんてったって、似たようなモデルが紀元前の作品からも見つかっているんだからな。俺も一度あっちで見せてもらったことがあるんだが、まさか日本でもお目にかかれるとはなぁ」 語り終えると友人は感慨深そうに、しきりに首を縦に振っている。反対に青年は姿勢を崩さないでいた。 「そんなのは嘘だ」 「あぁ、だからこれは都市伝説だ。そう言ってるじゃないか」 友人が笑う。「お前、まさか怖いのか?」なんて煽り文句をつけて。 「そんなわけないだろ。噂だ噂」 「あぁ噂だ」友人は唇を歪め、少し考えてから「しかし」と付け加える。 「そういや知り合いに死んだ作者の手記を持ってるやつがいるから……うむ、いい機会だ。取り寄せてやるよ。お土産を船の中に置き忘れたお詫びだな」と邪悪気のある目つきでそう言った。 「別に頼んでないが? 大体お前はいつもそうやって僕をからかうがな」 「いやいやそんなつもりではない。すまんかった、ほれ飲め飲め」 結局話は酒で煙に巻かれ、そのあと二軒梯子して二人は別れた。 その夜、布団にくるまって青年は案外穏やかな気持ちでいた。 『このまま巽の絵を描き続ければ、僕はいずれ死ぬのかもしれない』 今日の話を信じているわけではないが、信じていないわけでもなかった。怖いような楽しいようなふわふわした気分がずっと離れなかった。 「俺さん、なんだか痩せましたな」 とある日の夕飯時、巽が心配そうに青年の顔を覗き込みながら問いかけた。 「あまり食べられていないんでしょうか?」 青年の茶碗には大盛りの白飯がよそわれている。 「いいや?」 青年は彼を心配させまいと、柄にもない大口で白米を掻き込む。ますます不安げな表情を極める巽。 実のところ青年はあの一件があってからなんだか具合が悪いような気がしていた。原因がよもや絵にあるのかもしれないと考え、知り合いの蔵を間借りして置いてもらったほどである。自分の気の弱さに呆れる。 「あまり無理をなさらないでくださいね」 「もちろんだよ」 青年が即答するのも虚しく、巽の表情は一向に和らぐところがない。 「今日は絵をお休みしてはどうですか?」 まさかの提案だった。巽が友人の言うような存在であることを、ちかごろ薄々本当のことであるような気がしていた青年である。 そんなこととは知らず巽は追って打診する。 「なんなら体調が回復するまで休むというのも俺はいいと思いますよ」 「それでは君に不都合なんじゃないか?」 言った後に青年はしまったと思った。 「俺に不都合? なぜ」 なぜ、と聞かれると青年は困った。確かに、誰かに説明できるほど根拠のある話ではなかったはずだ。青年は急にここ数日の妄想が馬鹿らしくなった。 『こんなに優しく気遣ってくれる人間が妖怪なわけがない』 至極当たり前の結論だった。 それからまた数日経って、かの友人が頼んでいた手記が青年のもとに届いた。ページが数枚飛び出ているようなボロボロのノートだった。この頃青年はもうその件については関わり合いたくないような気持になっていた。かといって友人を無下にする気にもならない。 お愛想と思ってページをぱらぱらとめくってみると、几帳面に日付がつけてあった。日記の最初と終わりで約2年分。書いてある内容は外国語であることに加えて字の癖が強く自分の力では到底解読できないように思った。 手記に添えてあった友人の手紙を読んでみる。 「翻訳屋に持って行け」 A5の便箋にそれだけが書かれていた。 『圧力を感じる』 青年は大人しく友人の提言に従うことにした。 作家をしている知人の元へ翻訳を頼みに行くと、知人は快く仕事を受けてくれた。 1か月半後にまた来てほしいとのことだった。 「今日は大丈夫だから」 そう告げると巽は一瞬顔をしかめてみせ、次にちょっと安堵したような顔をした。 秋も過ぎ去り、冬のアトリエ。 青年が咳き込むたび、空間には白い靄が浮かび上がる。 そういえば、もう季節は12月の終わりに差し掛かっている。師走よろしく、外もなんだか活気づいているようだった。と青年はここで初めて年の終わりを予感した。 薄暗いアトリエで青年は着々と完成に近づきつつある自身の作品を見つめる。ふと手記のことを思い出した。 『そろそろ頼んだ翻訳も終わった頃だろうか』 筆で橙色をとってパレットに置く。 「寒くないかい?」 青年は巽を気遣うように声をかけた。しかし、本当に寒いと思っているのは青年自身だった。巽は 「いえ、俺は」 と事もなげに答える。 「そうか、ならよかった」 けほっと咳を一つ。再び筆を取る。 しばらくするとやはりどうしても寒いのか、色を置こうとするも手がかじかんで、どうにも穂先が定まらなくなってきた。ジリジリと筆先を睨みつける。 すると不意に体温が、青年の利き手を包みこんだ。 『温かい』 見上げると2連黒子が愛おしい、恋人の顔があった。 「俺さん、少し休憩にしましょうか」 「いいのかい? 最近は休んでばかりで、きみに迷惑をかけてない?」 恋人はかぶりを振って 「ですから、迷惑など。俺のことは気になさらず、あなたはあなたの事を大切にしてくださいね。温かいゆずレモネードを淹れてきますので、これを掛けて待っていてください」 上着を膝にかけてくれた。 青年はその優しさで十分、震え上がるほど嬉しかったのだが 「うん、ありがとう」 恋人は愛想のいい笑みを浮かべ、静かに扉を閉めて出て行った。 見送って青年は自分が無意識の内に首を守っていたことに気がついた。 『最近妙な夢を見るようになった』 例の妄想の類である。 彼が妖怪な訳が無いと心の表の部分では思いながらも、僕はあの妄想を止めることができないでいた。 寝る前、僕が咳き込むとき。苦しくて苦しくて堪らなくていっそ殺してほしいと願う。そんな時、想像上に靄が現れる。僕はそれを頭の中で練って練って人肌までに温めてゆっくりと首を絞めてもらう。すると眠りの世界に落ちていって僕は夢の世界でも苦しみに喘いでいる。 夢の中で僕がのたくっていると靄はどんどん彼の姿になっていく。そして問うのだ。 『TRICK or TREAT』 僕は苦しくて何も言えず、ただ身を捩らせて逃げようとするが彼はそれを許さない。例の二択をしきりに迫りながら腕の力を強くしていく。 僕は必ずTREATを選んだ。TREATを選ぶと楽になれた。意識がふっと軽くなり、体の芯を失って、夢か現実か分からない世界へと飛んでゆく。 僕はいつもそうやって目を覚ました。 手紙が届いた。翻訳が完了したとのことだった。 手記の内容(抜粋) ――沈んだ私の心を彼は幾度も満たしてくれた。売れない私の絵に価値を見出してくれた彼との出会いは私の不幸な人生の唯一の光。 ――近頃何をしてもどうしようもなく疲れる。そんな私を彼はいつも丁寧に労ってくれる。その瞬間が何よりも愛おしい。 ――病院に行ったら病気が見つかった。結核だった。畜生。 ――悪夢を見ている感じがあるので寝る前にハーブティーでも飲もう。 ――何が何でも作品だけは完成させなければ。死ぬ前に。 青年は何度も何度も最後の文を読んだ。 『死ぬ前に』 作家は 「おそらく個人の書いた日記形式の小説でしょう。面白いかはさておき、尽力したので目を通していただけると幸いです」 と達成感を滲ませている。 青年はどうしてもこれを小説だとは思えなかった。書かれた出来事、彼の存在、作品に対する謎の執着まで、身に覚えがありすぎる。 「どうされました?」 「いや、なんでもありません」 青年は手記の原本と翻訳本を受け取ると、作家に報酬を払い、とっととその場を離れてしまった。 ガタッ 「っ……はぁ……はぁ……」 「俺さん!」 筆を持つ手、膝がブルブル震えて立ち上がることができない。 母指球に体重が乗って痛い。額に冷汗が滲む。 「無理せず今日は休みましょう」 巽が肩を貸し、寝室まで運んでくれようとする。 青年は顔をそむけた。 「いい、……まだ、描ける」 「しかし」 「かまうなっ」 青年は半身を精一杯捩ると、思いっきり地面に叩きつけられた。 「っぼぇ゛っ!!」 「俺さん!」 巽の声が降りかかる。 「無理です。ここはいったん休みましょう」 巽は青年を横に抱きかかえると問答無用で寝室へと運ぶ。 青年は無念であった。 『死ぬ前に』故人の言葉が、手記を読んだ瞬間から彼の頭の片隅を陣取っていた。 『描きあげるまで僕は死ねない。』 この執着がどこから来るものなのか青年自身はっきりとは分からなかった。しかし、近頃確信めいてきた仮説がある。 完成させると死ぬのか、死ぬ前に完成させたのか。あの日話した都市伝説。青年は一度、巽は生者の命を奪う死神だと定義づけた。 考えてみれば、出会ってから一年で青年は不治の病に罹っているのだし変な夢も見る。変な怪談話もあるし、証拠のような品も幾つか出ている。一見そうと思えなくもないのだが……本当にそうだろうか? 青年は視点を変えてみた。 巽が死期が近い人間の前に現れる天使だとしたら? よく考えてみる。青年が病気になったのはここ数ヶ月のことである。しかも病名は結核。誰でも罹る流行病だ。そして感染したのは恐らく例の骨董店。あの店主も今頃は火葬を終えて地面に埋められているのだろうか。また、かつて手記を書いた作者は実はその後も生きていた。それはあの友人から聞かされた話である。作者は生き、子孫を残している。子孫が語るには肖像画のモデルこと祖父の元恋人は祖父が元気になるとそっと姿を消したのだという。 友人は「やっぱ都市伝説だったな。似てるモデルもたまたまだな」なんて軽口を叩いていたが、青年の心の底からの安堵たるや。友人は知る由もないのだろう。 青年は巽に出会うまで本当に死にそうだった。出会わなければ自ら命を絶っていたと断言できるほど病んでいた。そんな彼の前に現れた巽は彼にとって天使そのものである。 少しでも延命させるよう、何かを残せるよう死相の出ている人間の前に現れて支援する、福祉の存在だとすれば…… 『なんだ、そういうことだったら僕も合点がいく』 青年は巽の腕の中で満足そうに眼を閉じた。同時に一抹の絶望に近い希望が彼の中に芽生える。 『いっそのこと』 「きみがぼくのくびをしめてくれたらいいのに」 「お願いだ。生い先短いと思って頼みを聞いてくれ」 青年は布団の上にその体を預けられると、起き上がる力もないながら続きを描かせてほしいと懇願した。 「ですが、今の体調ではそれも難しいと思いますよ。第一、今の握力じゃ筆もまともに持てないでしょう」 ごもっともな意見が返ってくる。 「それに、生い先短いなんて縁起の悪いことをおっしゃらないでください。俺はあなたを愛しているんですから」 暖炉のように温かい手のひらが青年の頬をなでる。 頬には自然と涙が伝った。 「僕は…死んでも… 」 こほこほと間の悪い咳だ。布団が擦れる音も相まって、プロポーズじみた彼の告白は掻き消された。しかし、恋人はこくりと頷いて 「まっていますよ」 強く手を握った。 トルコ石の青。そしてクジャク石の緑。 翌日青年は巽の手を借りてキャンバスの前に座っていた。背景と体の部分は満足のいく仕上がりにまで落ち着き、残りは髪と目の色の調整を慎重に行っていくだけ。ぶつかってしまいそうなほど近くにある恋人の顔面をまじまじと見つめ、青年は色を選んでいく。 露草の青と、紅の赤。 色を重ねる毎にどくどくと脈打つ肺と心臓は本来の調律を忘れ、まるで真っ赤に焼けた鉄板の上で踊り狂っているよう。 最後に瞳に紫を落とし、青年は恋人の胸に倒れ込んだ。 意思と関係なく体がビクビク大きく跳ね、口からは朱い淡が咳き込むたびに飛び出す。 『早く解放して』 目縁に涙が溜まる。 耳元に息がかかり、 「TRICK or TREAT」 僕は迷わず選んだ。 「TRI 」 ここまで出て喉がつかえる、 「ック」 と音が漏れる。 途端、音も立てずアトリエから巽の姿が消えた。 体を支える柱を失って青年は床に強く体を叩きつけられる。衝撃で絵が青年の顔面に倒れ込んできた。 何が起こったか把握しきらぬまま、青年は絵を抱き咽び泣いた。 青年の涙で紫の青は流れ出した。そして瞳には、業火を連想させるごとく紅い、紅の赤だけが残った。 それから間もなく青年の意識は、嘗ての両親と愛する恋人の姿を追うように煙となって立ち昇る。アトリエの闇の中、降り始めた雨が網戸を打つ。 青年の魂は網戸を抜けて雨の暗闇へと狼煙のように差し上る。いつしか雲を抜けて一人の天使と出会った。 青年はそこで巽の行方を聞いてみた。天使は答える。 「巽なら魂となってあなたをあそこで待っていますよ」 見ると発光した白銀の魂が一つ、天界への入り口を前に立っていた。 「巽は天使のお役目を解かれたのです。あなたによってね……さあ行きなさい。愛する人が待っていますよ」 青年の魂は急いで白銀の魂へと向かっていった。そうして二つの魂は一片の曇りもない世界へとするすると吸い込まれていった。 もう雨の降る心配はない。 美しい男の肖像画編(終)
昭和✕✕年。とある豪邸の客間。三人の富豪たちが自慢のコレクションを持ち合い小さな品評会を開いている。モネの睡蓮、横山大観の夜桜など名画の模写が卓上に並ぶ中に一つ、ただならぬ雰囲気を纏う肖像画が中心に据え置かれた。一点物だというこの作品には、青磁色の髪に赤い眼をした人物が一人、微笑みを湛え静かにこちらを見つめている。女とも男ともとれないモデルには何とも言えない魅惑があり、深紅の瞳には変わった光が灯っているようで見る人をたちまち釘付けにした。持ち主が小鼻を膨らませ、笑みを含んだ声で
「この肖像画を描いた画家は描き上げて間もなく死んでしまったそうですよ」
と付け加える。途端に一人が目を見張り
「それでは、こりゃ呪の絵って訳ですかい」
声を高くして尋ねる。
「そんな縁起の悪いもんでも無かろうよ。偶々ということもあろう」
一人がフォローを入れたとき、突然、窓硝子を鋭い光が貫いた。室内がモノクロに裏返り轟音が轟く。そして立て板に水をかけたみたいな土砂降りになった。
「くわばらくわばら」
ビビリの男が心底辛そうに手を擦り合わせる。
二人は互いに苦い顔を見合わせ同時に窓の向こうに目をやった。暗雲垂れ込める空はずっと向こうの町まで続いているように見受けられた。
「今度のは長くなりそうですな」
「まったく、物騒な天気で……」
明治✕✕年。春雨前線が日本列島を跨る6月。一時の晴れ間。先刻の水溜りが暮れの灯りを内包し、あめんぼがワイングラスを弄ぶように水面を揺らめかせている。
一陣の風が吹き、水溜りはさざ波をたてる。風を先導するのは革靴。
革靴はぬかるみを蹴るような音の他に小瓶同士がぶつかるガンカラとやや重い音を立てている。この音が聞こえると軒先の鶏たちは一様に煩く鳴き、連られるようにしてカラカラと玄関の引き戸が開く。出てきたのは塗下駄。塗下駄の地面を擦る音が、鹿威しの如く一定の規律をもって門に向かう。
「おかえりなさい」
「ただいま、巽」
乱れた靴先は塗下駄を前にして揃えられる。
革靴を履くのは年若い青年。雨が降ればそのまま溶けていきそうな甘い視線を恋人へ向ける。応ずるように温かな眼差しを落とすのは陶器のように眩い彼の恋人。恋人は塗下駄を履いている。
恋人の持つ翠髪は龍のひげの如く繊細で、一本一本に陽光が閉じ込められており、時折桃色にも見える紫瞳はとろけるような優しさで満ちている。二人は互いに見つめ合い、しばし視線の交換を愉しんだ。
茶化すように銀の糸雨が降ってくる。
「さあ中に入りましょう。冷えてしまっては大変ですからね」
恋人は青年の背に手のひらを添え家の中へと誘導する。彼を先に行かせ、戸口を窮屈そうに通る。恋人は平均よりも上背がある大きな男であった。
彼等は簡単な食事を済ませるといつもの習慣から北にある6畳ほどのアトリエに籠もった。アトリエには家具らしい家具は置いておらず中心にモデルのための椅子が、向かい合うようにしてキャンバスと椅子、脇にパレット類を置くサイドテーブルがあるだけだ。北窓から差す光は静謐で、窓は網戸にしてある。反対に、西側の窓には光が入ってこないよう黒の遮光カーテンが重々しく吊られている。
青年は手で椅子周りの散らばった画材を払うと、雨が入らないよう北窓を閉め、キャンパスの前に足を開いて座った。巽が画材を避けて定位置へと回り込む。籐椅子に深く腰掛け、上半身を少しだけ捻り、顎を引いてこちらを慈しむように
「うん。そのまま」
輪郭を追うように平筆で丁寧に色を重ねていく。キャンバス上にありありと浮き出る恋人の像は、青年に安息をもたらしてくれた。
青年は貪るような視線でモデルを観察し、何遍も何遍も色を塗り固める。
色が足りなくなると瓶の顔料を乳鉢に零し、油でそれを練った。チューブ入りの画材はあったが、自分で色の硬さを調節するのが彼の拘りだった。ラピスラズリを膠液で展色しウルトラマリンブルーを作る。筆で掬って瞳に……。と、ここで筆先が止まった。
『何か違う、もっとこう怪しい感じの色が欲しいのだが』
湿気の立ち込める暗室。毛穴を塞ぐ煮詰まった空気を厭う。窓に結露した水滴が一筋流れ、ポタリポタリと雨の音。
こうなるともうどうしようもないことを青年は知っていた。眉根を開いてふわり、肩を落とす。
「……少し休憩にしようか」
巽も表情を緩めて頷く。
「ですな、紅茶を淹れてきます。俺さんはアールグレイとダージリンどちらがいいですか?」
「甘いのがいいな」
「では、フルーツティーですね」
「うん、ありがとう」
巽は愛想のいい笑みを浮かべ、静かに扉を閉めて出て行った。
青年は見送るとキャンバスに視線を戻した。
グリニッシュの下地がよく効いて、重ねた色が一段と冴えて見える。纏う白シャツが天女の羽衣のように艶めかしく、包まれる肌はまるで傷のつきやすい桃だ。
ほうっと息を漏らした。
思わず触れたくなる。それでも、触れてしまえば火傷してしまいそうな。
そんなエネルギーが絵にはこもっていた。
『巽に出会わなかったら僕にこんな絵は描けなかった』
青年は顔のない肖像画をじっと見つめて静かに目を閉じた。そうしていつもそうするように、彼との出会いを思い起こした。
巽と初めて会ったのは一年前。
僕は知り合いの頼みで、とある展示会に作品を出展していた。といっても、出した作品は誰も見向きもしないような味のない無気力な絵。当時の僕は両親が事後で急逝して間もなく灰のような毎日を過ごしていた。創作活動をする元気などあるはずもない。僕は僕の作品なんて気にも留めずスルーして行ってしまう人々を眺めながら、ただボーっと立っていた。
そんな中、一人だけ、僕の作品の前からずっと動かない人間がいた。眼鏡をかけた標準よりもやや大柄な男。真剣な目つきで、絵を睨みつけているようにも見える。僕は自分自身を責められているような気分になり堪らなくなって声をかけた。
「随分と熱心に見られていますが、気になりますか?」
男は声をかけられて初めて人の存在に気づいたという風に、目を丸くして振り向いた。
「ああ、はい。いい作品だと思い眺めていました」
にこやかに微笑む。
この一瞬で僕が思ったこと。
ははん、この男は芸術が分からないのだな。分からないのに文化人振ってるのだ。
「失礼、貴方は作品のどの辺をいいと言ったのでしょう? 教えてくれませんか?」
男は「そうですね」と言ったきり顎に手を当てて黙り込んでしまった。
やっぱり。と思った。胸がずきんと痛んだ。
男の沈黙が明けるのも待たずに僕は喋りだした。
「っぼくからしてみれば、これを描いた人間は腑抜けた伽藍洞ですね、こんなつまらない絵を描くんですから。あなたが答えられないのも無理はないです……立ち止まっていたのはレンズが曇っていたから拭こうとしたのでしょう? どうです、私が拭って差しあげますよ」
おどけた調子を装い手を差し出した。しかし、男は眼鏡の中からじっと瞳を覗かせ
「いいえ、」
思いのほか強い口調だった。
「この絵は決してつまらなくなどありません。このくすんだ色使い。街灯の光のみが妙に眩しく、視界がボヤけた感じ。作者はきっと近頃にとても悲しい出来事があったんでしょうな。打ちひしがれてしまっているのがひしひしと伝わってきます。俺はこの作品を通して作者の背景に思いを馳せていたんですよ」
穏やかな、優しい眼差しだった。
僕はこの時どんな顔をしていたのだろう。男の純粋な優しさに触れて泣きそうな顔をしていたのだろうか、それともお前に何が分かると言わんばかりの怖い顔をしていたのだろうか。
いいや、きっとそのどちらでもない。僕は頭の中で彼を描くのに夢中だった。
肌はジョーンブリヤン。健康的な血色を表現するには鮮やかな黄色がいい。瞳の色はラピスラズリ。彼の精神性を表すには知的で慈悲深い、ウルトラマンの深い青が似合う。髪はビリジアン。いや、アンティークグリーンもいいな。
展開するのは色彩の万華鏡。頭が操られたみたいにおかしくなって、あまりの刺激に脳がパチパチと警告音を立てる。
「あなた、お名前は」
僕は半ば目を回しながら尋ねた。彼は特に気にするでもなく
「はい。俺は風早巽と言います。東南の方から吹く早い風と覚えてください。あなたは?」
「俺田俺…」
「俺田俺さん…?」
作品の方を振り返ってネームプレートを見る。
「おや」
月見草が月にはじけ咲くようだった。
香り立つストロベリーティーの甘い煙がティーカップの縁から流れ出し、シルクの糸のように延びて鼻腔をくすぐる。向かいには出会った頃と変わらない、柔和な笑みを浮かべた愛しい恋人。紅茶に映る青年の顔は、いいようもなく明るく、幸せそうだった。
十月も終わりが近くなり、吹きすさぶ秋風に上着をはためかせながら青年は港町まで足を運んでいた。絵画教室時代の友人が留学から帰ってくるというので、迎えに行くついでにいろいろと見て回ろうと思ったのだ。
港町は相変わらず市場で賑わっていた。食糧品やら雑貨、最新の機械まで。近年は殊更に文明開化の気風が高まっているせいか、どの店も西洋のものを店頭に飾って店の目玉にしている。中には赤字で非売品と書いたプレートが添えられているものまであった。
青年はそれよりも店奥の品が気になった。ちらと見える内装が物で氾濫している店ほど心惹かれた。
したがって青年はとある骨董店の前で足を止めざる終えなかった。仕入れたものを並べられるだけとでも言うような、売る気のまるで感じられないディスプレイ。品物が店頭を覆いつくす様に自然と体が吸い込まれていく。
「いらっしゃい。ごほっ」
山になったカウンターから店主がひょっこり顔を出し挨拶する。それが予期せぬ方角からだったのに青年は一瞬ぎょっとしたが持ち直して
「こんにちは、素敵な外装だったのでつい」
世辞を言った。
「かっかっか」
店主は豪快な笑い声を立て咳き込んでから
「ゆっくり見ていきんなさい」
目を笑わせて、また山に埋もれていった。
店内は実に美術品の宝庫であった。絵に陶器類に子供のおもちゃまで。世界中から集めてきたのだろう、有名なものから外国の子供が描いたような、まだ誰も知らないであろう作品まであった。
さらに歩みを進めていくと、奥まった所に一点の肖像画が行き当たった。大層な額縁に収まって大物の雰囲気を纏っている。青年は息をのんだ。そのモデルは彼の恋人に、顔かたち表情の何から何までが、違わぬところはないほどにそっくりだった。
いつの間にか隣に来ていた店主が青年に話しかける。
「その絵、目を引くでしょう」
青年はなんとか取り繕って「えぇ」と返事をした。店主は少し興奮したように
「ドイツの作家が遺したものでねぇ、まぁパッとしない絵ばかり描く作家なんだが、この絵だけ別人が描いたみたいにうまくて。私なんかはこの絵だけでファンになったもんです。残念なことに、絵を描き上げてすぐ亡くなってしまったようなんですが……。もっと生きれば、もっといい絵がたくさん残ったかも知れないのに、ごほっごほっ。失礼、最近咳が多くてね」
「大丈夫ですか」
「気にせんでください。ただの老いぼれ病ですから」
「はあ」
「まぁ何の事なし、この絵が良い絵だということをお客さんに伝えたかったんですよ。えふっえふっ」
青年は店主の死にそうな咳を表立って気に病むことをやめ話題を目の前の絵に戻すことにした。
「えらく気に入ってらっしゃるんですね」
「そりゃあもう」
店主が嬉しそうにはにかむ。
「いつ描かれたものなんでしょう?」
「たしか、150年くらい前のものだったと。保存状態がかなり良いのでそうは見えにくいんですがねぇ」
「はい……」
青年の心はすっと肖像画に奪われていった。特にその目にくぎ付けだった。色ではない論理でもない、青年の想像を超える何者かの力が働いて、一種の魔力ともいえる力を放っていた。
店主は最後に
「一点ものですよ」
と秘密ごとを共有するみたいに小さな声で囁いた。
「おいくらですか」
「100円でございます」
100円。(当時の200万)
青年は幸い先祖の蓄えがあるためにお金には困っていなかった。が、生憎100円なんて普段は持ち歩いていない。
「必ず買いますから。あとでお金を持ってきましょう。残念ながら今は手持ちがありません」
「それは残念でございますなぁ。あいにく私も夕方の便でここを離れることになっておりまして」
「それは……」
青年は言葉に詰まった。そんなわけがなかろうと。しかし気持ちに諦めがつかない。腕にしていた祖父の形見の腕時計を店主へ差し出す。
「おそらく100円以上の価値があると思います」
店主は値定めするように、時計をじろりと舐め回してから青年をその大きな目玉でぎょろと見た。
『ぬらりひょんみたいだ』
「いいでしょう」
店主はそう言ってカウンターに戻ると、風呂敷を持って咳き込みながら絵を包んでくれた。
青年は風呂敷包みを脇に抱え船着き場に友の舟を待った。しばらくして大きな船がやってくる。人の塊が視認できるようになったので、ハンカチを振ってアピールすると、スーツを着た友人らしき男もハンカチを振り返してきた。
「やあ、久しぶり。元気だったか?」
「ぼちぼちだよ」
他愛ない挨拶を交わし、青年が労いの意を込めて友人の鞄を持ってやろうとすると彼はそれを断り、代わりに風呂敷包を指さして尋ねてきた。
「随分と大きな荷物だが、それは何を包んでいるんだ」
「これはさっき骨董屋で買ったんだよ。なかなか面白いものだから君にも見てほしい」
二人は適当なお座敷のある店に入った。
「これなんだけどね」
風呂敷を広げる。友人の目が軽く見開かれた。
「これはお前、どこで買ったんだ」
「港町の船着き場のすぐ近くの骨董店だよ」
「こりゃあ面白い」
「? 」
友人は少し苦しそうに喉の奥で息を吐いてから作品を手に取り、視線で愛撫するように肖像画を眺めていた。
青年は友人が話し出すまで黙ってそれを見ていたが、途中でたまらなくなって声をかけた。
「そろそろ僕にも説明してくれよ。それの何が面白いのか」
「あぁ、すまん」洗脳が解けたみたいにぱっと顔を上げ友人はきまり悪そうな笑みを浮かべた。
「いや、そんな大した話でもないんだがな」と言いながら居住まいを正す。
青年もつられて行儀の良い姿勢になった。
「つまり要約するとだな。これは所謂、都市伝説でいうところの呪の絵ってやつだ。時代や国を問わず同じような絵が見つかっているし、作者は大体このモデルを描き上げた後に死んでいる。まぁどうだかって話だが、業界では有名な怪談話だよ。色んなアレンジがされていてな、画家は死ぬ前に同じ人間の夢を見る。妖怪が現れて画家を殺してしまうなどと言われている。なんてったって、似たようなモデルが紀元前の作品からも見つかっているんだからな。俺も一度あっちで見せてもらったことがあるんだが、まさか日本でもお目にかかれるとはなぁ」
語り終えると友人は感慨深そうに、しきりに首を縦に振っている。反対に青年は姿勢を崩さないでいた。
「そんなのは嘘だ」
「あぁ、だからこれは都市伝説だ。そう言ってるじゃないか」
友人が笑う。「お前、まさか怖いのか?」なんて煽り文句をつけて。
「そんなわけないだろ。噂だ噂」
「あぁ噂だ」友人は唇を歪め、少し考えてから「しかし」と付け加える。
「そういや知り合いに死んだ作者の手記を持ってるやつがいるから……うむ、いい機会だ。取り寄せてやるよ。お土産を船の中に置き忘れたお詫びだな」と邪悪気のある目つきでそう言った。
「別に頼んでないが? 大体お前はいつもそうやって僕をからかうがな」
「いやいやそんなつもりではない。すまんかった、ほれ飲め飲め」
結局話は酒で煙に巻かれ、そのあと二軒梯子して二人は別れた。
その夜、布団にくるまって青年は案外穏やかな気持ちでいた。
『このまま巽の絵を描き続ければ、僕はいずれ死ぬのかもしれない』
今日の話を信じているわけではないが、信じていないわけでもなかった。怖いような楽しいようなふわふわした気分がずっと離れなかった。
「俺さん、なんだか痩せましたな」
とある日の夕飯時、巽が心配そうに青年の顔を覗き込みながら問いかけた。
「あまり食べられていないんでしょうか?」
青年の茶碗には大盛りの白飯がよそわれている。
「いいや?」
青年は彼を心配させまいと、柄にもない大口で白米を掻き込む。ますます不安げな表情を極める巽。
実のところ青年はあの一件があってからなんだか具合が悪いような気がしていた。原因がよもや絵にあるのかもしれないと考え、知り合いの蔵を間借りして置いてもらったほどである。自分の気の弱さに呆れる。
「あまり無理をなさらないでくださいね」
「もちろんだよ」
青年が即答するのも虚しく、巽の表情は一向に和らぐところがない。
「今日は絵をお休みしてはどうですか?」
まさかの提案だった。巽が友人の言うような存在であることを、ちかごろ薄々本当のことであるような気がしていた青年である。
そんなこととは知らず巽は追って打診する。
「なんなら体調が回復するまで休むというのも俺はいいと思いますよ」
「それでは君に不都合なんじゃないか?」
言った後に青年はしまったと思った。
「俺に不都合? なぜ」
なぜ、と聞かれると青年は困った。確かに、誰かに説明できるほど根拠のある話ではなかったはずだ。青年は急にここ数日の妄想が馬鹿らしくなった。
『こんなに優しく気遣ってくれる人間が妖怪なわけがない』
至極当たり前の結論だった。
それからまた数日経って、かの友人が頼んでいた手記が青年のもとに届いた。ページが数枚飛び出ているようなボロボロのノートだった。この頃青年はもうその件については関わり合いたくないような気持になっていた。かといって友人を無下にする気にもならない。
お愛想と思ってページをぱらぱらとめくってみると、几帳面に日付がつけてあった。日記の最初と終わりで約2年分。書いてある内容は外国語であることに加えて字の癖が強く自分の力では到底解読できないように思った。
手記に添えてあった友人の手紙を読んでみる。
「翻訳屋に持って行け」
A5の便箋にそれだけが書かれていた。
『圧力を感じる』
青年は大人しく友人の提言に従うことにした。
作家をしている知人の元へ翻訳を頼みに行くと、知人は快く仕事を受けてくれた。
1か月半後にまた来てほしいとのことだった。
「今日は大丈夫だから」
そう告げると巽は一瞬顔をしかめてみせ、次にちょっと安堵したような顔をした。
秋も過ぎ去り、冬のアトリエ。
青年が咳き込むたび、空間には白い靄が浮かび上がる。
そういえば、もう季節は12月の終わりに差し掛かっている。師走よろしく、外もなんだか活気づいているようだった。と青年はここで初めて年の終わりを予感した。
薄暗いアトリエで青年は着々と完成に近づきつつある自身の作品を見つめる。ふと手記のことを思い出した。
『そろそろ頼んだ翻訳も終わった頃だろうか』
筆で橙色をとってパレットに置く。
「寒くないかい?」
青年は巽を気遣うように声をかけた。しかし、本当に寒いと思っているのは青年自身だった。巽は
「いえ、俺は」
と事もなげに答える。
「そうか、ならよかった」
けほっと咳を一つ。再び筆を取る。
しばらくするとやはりどうしても寒いのか、色を置こうとするも手がかじかんで、どうにも穂先が定まらなくなってきた。ジリジリと筆先を睨みつける。
すると不意に体温が、青年の利き手を包みこんだ。
『温かい』
見上げると2連黒子が愛おしい、恋人の顔があった。
「俺さん、少し休憩にしましょうか」
「いいのかい? 最近は休んでばかりで、きみに迷惑をかけてない?」
恋人はかぶりを振って
「ですから、迷惑など。俺のことは気になさらず、あなたはあなたの事を大切にしてくださいね。温かいゆずレモネードを淹れてきますので、これを掛けて待っていてください」
上着を膝にかけてくれた。
青年はその優しさで十分、震え上がるほど嬉しかったのだが
「うん、ありがとう」
恋人は愛想のいい笑みを浮かべ、静かに扉を閉めて出て行った。
見送って青年は自分が無意識の内に首を守っていたことに気がついた。
『最近妙な夢を見るようになった』
例の妄想の類である。
彼が妖怪な訳が無いと心の表の部分では思いながらも、僕はあの妄想を止めることができないでいた。
寝る前、僕が咳き込むとき。苦しくて苦しくて堪らなくていっそ殺してほしいと願う。そんな時、想像上に靄が現れる。僕はそれを頭の中で練って練って人肌までに温めてゆっくりと首を絞めてもらう。すると眠りの世界に落ちていって僕は夢の世界でも苦しみに喘いでいる。
夢の中で僕がのたくっていると靄はどんどん彼の姿になっていく。そして問うのだ。
『TRICK or TREAT』
僕は苦しくて何も言えず、ただ身を捩らせて逃げようとするが彼はそれを許さない。例の二択をしきりに迫りながら腕の力を強くしていく。
僕は必ずTREATを選んだ。TREATを選ぶと楽になれた。意識がふっと軽くなり、体の芯を失って、夢か現実か分からない世界へと飛んでゆく。
僕はいつもそうやって目を覚ました。
手紙が届いた。翻訳が完了したとのことだった。
手記の内容(抜粋)
――沈んだ私の心を彼は幾度も満たしてくれた。売れない私の絵に価値を見出してくれた彼との出会いは私の不幸な人生の唯一の光。
――近頃何をしてもどうしようもなく疲れる。そんな私を彼はいつも丁寧に労ってくれる。その瞬間が何よりも愛おしい。
――病院に行ったら病気が見つかった。結核だった。畜生。
――悪夢を見ている感じがあるので寝る前にハーブティーでも飲もう。
――何が何でも作品だけは完成させなければ。死ぬ前に。
青年は何度も何度も最後の文を読んだ。
『死ぬ前に』
作家は
「おそらく個人の書いた日記形式の小説でしょう。面白いかはさておき、尽力したので目を通していただけると幸いです」
と達成感を滲ませている。
青年はどうしてもこれを小説だとは思えなかった。書かれた出来事、彼の存在、作品に対する謎の執着まで、身に覚えがありすぎる。
「どうされました?」
「いや、なんでもありません」
青年は手記の原本と翻訳本を受け取ると、作家に報酬を払い、とっととその場を離れてしまった。
ガタッ
「っ……はぁ……はぁ……」
「俺さん!」
筆を持つ手、膝がブルブル震えて立ち上がることができない。
母指球に体重が乗って痛い。額に冷汗が滲む。
「無理せず今日は休みましょう」
巽が肩を貸し、寝室まで運んでくれようとする。
青年は顔をそむけた。
「いい、……まだ、描ける」
「しかし」
「かまうなっ」
青年は半身を精一杯捩ると、思いっきり地面に叩きつけられた。
「っぼぇ゛っ!!」
「俺さん!」
巽の声が降りかかる。
「無理です。ここはいったん休みましょう」
巽は青年を横に抱きかかえると問答無用で寝室へと運ぶ。
青年は無念であった。
『死ぬ前に』故人の言葉が、手記を読んだ瞬間から彼の頭の片隅を陣取っていた。
『描きあげるまで僕は死ねない。』
この執着がどこから来るものなのか青年自身はっきりとは分からなかった。しかし、近頃確信めいてきた仮説がある。
完成させると死ぬのか、死ぬ前に完成させたのか。あの日話した都市伝説。青年は一度、巽は生者の命を奪う死神だと定義づけた。
考えてみれば、出会ってから一年で青年は不治の病に罹っているのだし変な夢も見る。変な怪談話もあるし、証拠のような品も幾つか出ている。一見そうと思えなくもないのだが……本当にそうだろうか? 青年は視点を変えてみた。
巽が死期が近い人間の前に現れる天使だとしたら?
よく考えてみる。青年が病気になったのはここ数ヶ月のことである。しかも病名は結核。誰でも罹る流行病だ。そして感染したのは恐らく例の骨董店。あの店主も今頃は火葬を終えて地面に埋められているのだろうか。また、かつて手記を書いた作者は実はその後も生きていた。それはあの友人から聞かされた話である。作者は生き、子孫を残している。子孫が語るには肖像画のモデルこと祖父の元恋人は祖父が元気になるとそっと姿を消したのだという。
友人は「やっぱ都市伝説だったな。似てるモデルもたまたまだな」なんて軽口を叩いていたが、青年の心の底からの安堵たるや。友人は知る由もないのだろう。
青年は巽に出会うまで本当に死にそうだった。出会わなければ自ら命を絶っていたと断言できるほど病んでいた。そんな彼の前に現れた巽は彼にとって天使そのものである。
少しでも延命させるよう、何かを残せるよう死相の出ている人間の前に現れて支援する、福祉の存在だとすれば……
『なんだ、そういうことだったら僕も合点がいく』
青年は巽の腕の中で満足そうに眼を閉じた。同時に一抹の絶望に近い希望が彼の中に芽生える。
『いっそのこと』
「きみがぼくのくびをしめてくれたらいいのに」
「お願いだ。生い先短いと思って頼みを聞いてくれ」
青年は布団の上にその体を預けられると、起き上がる力もないながら続きを描かせてほしいと懇願した。
「ですが、今の体調ではそれも難しいと思いますよ。第一、今の握力じゃ筆もまともに持てないでしょう」
ごもっともな意見が返ってくる。
「それに、生い先短いなんて縁起の悪いことをおっしゃらないでください。俺はあなたを愛しているんですから」
暖炉のように温かい手のひらが青年の頬をなでる。
頬には自然と涙が伝った。
「僕は…死んでも…
」
こほこほと間の悪い咳だ。布団が擦れる音も相まって、プロポーズじみた彼の告白は掻き消された。しかし、恋人はこくりと頷いて
「まっていますよ」
強く手を握った。
トルコ石の青。そしてクジャク石の緑。
翌日青年は巽の手を借りてキャンバスの前に座っていた。背景と体の部分は満足のいく仕上がりにまで落ち着き、残りは髪と目の色の調整を慎重に行っていくだけ。ぶつかってしまいそうなほど近くにある恋人の顔面をまじまじと見つめ、青年は色を選んでいく。
露草の青と、紅の赤。
色を重ねる毎にどくどくと脈打つ肺と心臓は本来の調律を忘れ、まるで真っ赤に焼けた鉄板の上で踊り狂っているよう。
最後に瞳に紫を落とし、青年は恋人の胸に倒れ込んだ。
意思と関係なく体がビクビク大きく跳ね、口からは朱い淡が咳き込むたびに飛び出す。
『早く解放して』
目縁に涙が溜まる。
耳元に息がかかり、
「TRICK or TREAT」
僕は迷わず選んだ。
「TRI 」
ここまで出て喉がつかえる、
「ック」
と音が漏れる。
途端、音も立てずアトリエから巽の姿が消えた。
体を支える柱を失って青年は床に強く体を叩きつけられる。衝撃で絵が青年の顔面に倒れ込んできた。
何が起こったか把握しきらぬまま、青年は絵を抱き咽び泣いた。
青年の涙で紫の青は流れ出した。そして瞳には、業火を連想させるごとく紅い、紅の赤だけが残った。
それから間もなく青年の意識は、嘗ての両親と愛する恋人の姿を追うように煙となって立ち昇る。アトリエの闇の中、降り始めた雨が網戸を打つ。
青年の魂は網戸を抜けて雨の暗闇へと狼煙のように差し上る。いつしか雲を抜けて一人の天使と出会った。
青年はそこで巽の行方を聞いてみた。天使は答える。
「巽なら魂となってあなたをあそこで待っていますよ」
見ると発光した白銀の魂が一つ、天界への入り口を前に立っていた。
「巽は天使のお役目を解かれたのです。あなたによってね……さあ行きなさい。愛する人が待っていますよ」
青年の魂は急いで白銀の魂へと向かっていった。そうして二つの魂は一片の曇りもない世界へとするすると吸い込まれていった。
もう雨の降る心配はない。
美しい男の肖像画編(終)